
白岩正樹さん:1988年生まれ。中央大学理工学部を卒業後、パナソニック株式会社を経て、2013年に若干24歳で父・正通さん創業の白岩工業株式会社へ入社。建設業は未経験ながらも地道な努力を重ね、2019年に専務取締役、2020年に代表取締役社長に就任。現在は後に入社した弟・大地さんと二人三脚で経営に邁進し、会社の更なる発展に向け尽力している。
近藤:今回は、b-side初めてのご兄弟対談ということで、とても楽しみにしていました。37歳という若さで白岩工業の社長をされている正樹さん、そしてそれを支える弟の大地さんのお二人に、様々な角度でお話を伺っていきたいと思います。今日はまず、社長である正樹さんの「B面」に迫りたいと思います。大地さんからのお兄さんに対するコメントも大歓迎ですので、よろしくお願いします。まずは正樹さんの幼少期から教えてください。どんなお子さんだったのでしょうか?
正樹さん(兄):小さい頃は本当にやんちゃで、人の言うことを聞かない子供でした。小学校の時は母がしょっちゅう学校に呼び出されていましたし、近所のお母さんからクレームの電話が来たこともあります。一方でその頃から客観的に自分を見る力はあったかもしれません。例えば幼稚園時代、それまで母親と離れるのが嫌で毎日泣いていたのに、年長になった瞬間に「泣くのはカッコ悪い」と気づいて以来、人前で泣くのを一切やめたんです。決めたことはやり遂げたいという気持ちも昔から強かったですね。小学校では6年間、一日も休まず学校に行くことを自分に課しました。いわゆる皆勤賞ですね。加えて当時、半袖短パンでいるのが自分の中のポリシーで、39度の熱が出た日もとりあえず半袖短パンで登校して、数時間後に早退するという無茶をしたこともありましたが、今では良い思い出です。
高校では陸上部に入りました。最初は先輩もいるのでなかなかレギュラーになれなかったんです。周りと同じ練習だけしていては駄目だと思い、部活動以外の時間を使ってジムへ通い筋トレをしたり、栄養学を学んで体づくりを意識したりもしました。その甲斐もあって、都大会の準決勝まで行けたんですよね。その頃から、客観的に自分を見て「自分にはこれが足りない、じゃあどう補うか」という思考はあったと思います。この視点は経営においても「自分の立場を弁えて、どういう一手を打つか」を考える上で役立っていますね。
最近兄弟でよく話すんですが、個性というのは極めれば極めるほど、幼少期の自分に立ち返るような感覚があると思っています。生まれ持った特性、ということなんでしょうね。
大地さん(弟):隣で見ていてもそうですね。兄は昔から変わらないです。小さい頃はめちゃくちゃいじめられましたけど(笑)、本当に我が道を行くタイプで。今でも仕事で無理難題が降ってきますが、「難題だけど、無理じゃないだろ?」というスタンスで、あの頃のままですね。

近藤:難題だけど無理じゃない、これは名言ですね!私も使います(笑)。そんな正樹さんですが、大学卒業後はパナソニックに入社され、家業とは違うキャリアを歩み始めたとお聞きしました。なぜ24歳という若さで会社を継ぐという大きな決断をされたのでしょうか。
正樹さん(兄):パナソニックでは新事業分野のスマートメーター開発に携わり、入社1年目の終わりから新商品を任されました。チーム3人で開発した関西電力向けの製品が日経新聞の一面に掲載されたこともあります。充実した日々でしたが、最初のきっかけは24歳の時に知った自分たちの出生の件でした。ある日戸籍謄本を取ったら、父親の欄に「認知」という文字があったんです。母に尋ねて初めて、母が正妻ではなかったこと、当時の僕らの苗字は母方の姓だったことを知りました。子供の頃、土日にしか家に帰ってこない父のことを母から「社長だから忙しい」と聞いていたのでそんなものかと思っていたのですが、その理由がようやく繋がりました。
当時は義理の兄が父の後を継いで社長を務めていたのですが、社員との関係がうまくいかず、1年も経たずに父が解任したんです。母から、父が「自分の息子を切った時ほど辛かったことはない」とひどく落ち込んでいると聞き、じっとしていられなかった。このまま今の会社にいても、大きな組織の歯車の一つでしかない。だったら自分が会社を継ごう、と決意したんです。
2012年の年末、帰ってきた父に「会社、俺が継ぐから」と宣言しました。父は松下幸之助を深く尊敬していたので、僕がパナソニックに入社したことをすごく喜んでくれていたんです。だから「せっかく入った松下なのに、本当にいいのか?」と心配していました。けれど僕の意志は固かった。父からは、じゃあ1年後位に…と言われましたが、自分から「決めたなら早い方が良い」と翌年の2013年3月にはパナソニックを辞め、白岩工業に入社しました。同時に養子縁組をして、白岩正樹になりました。
大地さん(弟):僕は当時まだ学生で、家のことや周りのことにまだ興味がありませんでした。なので「へぇ、兄貴が親父の会社に入るんだ、名前も変わるんだ、頑張って」ぐらいにしか思っていませんでしたね。

近藤:正樹さんは大きな決意で入社されたわけですが、当時はかなり厳しい状況だったそうですね。24歳の正樹さんにとって、それはどのような経験でしたか?
正樹さん(兄):まさに針のむしろでした。入社した当時は、正直言って「事業承継に失敗した会社」という雰囲気です。父は80歳を超え、社内は「また創業者の息子か」という冷ややかな空気。入社初日に50代の社員から「今時オーナー企業なんて流行らない」と言われ、現場に行けば「君が課長なの?」とあからさまに嫌な顔をされる。「あなたの味方は社内に誰もいません」と言われたこともあります。
でも、不思議と心が折れることはなかったんです。「命まで取られるわけじゃないし、これを乗り越えたら面白いことになるぞ」って。会社の財務状況も悪く、課題が山積みだったからこそ、逆に「これはチャンスだ」と思えたんです。初代がカリスマだった分、組織としては未整備な部分がたくさんあった。そこを自分が整備していくことで、生きる道があるはずだと。
まずは信頼関係を築くしかないと考え、最初の2年間はとにかく現場を歩き、ほとんどの社員と飲みに行きました。そして、影響力のある人たちのもとを「未熟者なので教えてください」と頭を下げて回り、徹底的に意見交換しました。そうするうちに、少しずつですが「その話、面白いから飲みに行こう」と声をかけてくれる人が増えていったんです。自ら厳しい環境に身を置こうと、鹿島建設さんのような大手元請けの窓口を志願し、そこで揉まれたことも大きかったですね。
大地さん(弟):兄は昔から胆力が尋常じゃないんです。ゲームで言うところのHPがめちゃくちゃ高い。いくら削られても全然減らない感じで。そのメンタルの強さは、やはり先天的なものなんでしょうね。

近藤:そして2019年、ご自身が専務に就任されたタイミングで、弟・大地さんを会社に迎え入れられましたよね。そこに至るまでのエピソードを聞かせてください。
正樹さん(兄):実は、その1年ほど前から、弟も会社に入社するという話があったんです。でも、その時は「まだ早い」と断りました。当時の僕はまだ取締役の一人で、社内での信頼も立場も盤石ではなかった。そんな状況で弟が入ってきても、彼が苦労するだけだと思ったんです。まずは自分が専務になり、会社のトップとして責任を持って舵取りができるようになってから、彼を迎えたかった。僕が築いた信頼という土俵があれば、能力のある彼は思いっきり暴れられる。周りも「あの専務の弟なら」と期待してくれる。お互いにとって、それが一番いい形だと思いました。
当時は父がトップとして在籍していましたが、やはり実務の細かいところまで見るのは不可能です。現場の意思決定者・執行役が必要だと感じ、自ら父に「自分を専務にして欲しい」と進言しました。専務に就任後は、社内で認めてもらうため、会社の利益率を高めることに尽力しました。定性的なことも大事ですがやはり定量的な成果を出す必要があります。不採算工事をゼロにしようと、受注、見積、現場管理など、全てのフローの楔をきちんと整備したり、意思決定が必要な場面ではスピーディに意思決定をしたり。結果に現れて、幹部社員から「専務が言うのであれば我々は従いますから」と言ってもらえた時は嬉しかったですね。
その後、弟に正式に声をかけました。彼が入ってきてくれた時は、本当に心強かったです。
近藤:入社前に会社を継ぐ覚悟をお父様に伝えた時もそうですが、ご自身を専務にするよう進言したというエピソードには感嘆しました。本気でなければできないことですよね。今日は正樹さんの「会社を継ぐ」という覚悟がいかに強いものだったか、それを知ることができたインタビューとなりました。次回は満を辞して入社された弟・白岩大地さんとのその後の歩みを、今度は大地さんの視点から、詳しくお聞きしたいと思います。今日はありがとうございました。

All photo by 武川健太
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PROFILE 近藤有希
フェリス女学院高校、東京大学文学部卒業。大手通信会社を経て現在は外資系金融機関勤務。仕事やプライベートを通じて出逢った様々な人の人生に触れる中で、その人の"A面"だけでなく"B面"を知ることの面白さを実感し、本インタビューサイトb-sideを設立。2児の母として子育てもしつつ、大好きな仕事や、ワイン・ホームパーティ・ダイビングなどの趣味も継続。自分の姿を見た子供たちに「人生って自由で楽しいんだ!」と思ってもらうことが目標。