小田順子:福岡県大牟田市出身。10代からは愛知県名古屋市で過ごし、高校卒業後一旦ウイスキーメーカーに就職するも、3年後短大へ進学し文学を学ぶ。卒業後結婚のために神奈川県横浜市へ移り、現在は自立した長女・長男の育児に想いを込めて取り組んできた。現在はかねてからの「ものを書く」という夢も頭の片隅におきながら、孫たちに愛情を注ぐ日々。
娘:インタビューに応じてくれてありがとう。母と娘としてたくさん会話はしてきたけど、こういう形で時間をとることで知らなかったことも聞けるのかなと思っていて。自分が子育てを始めて、一度子育てについては聞いてみたいと思ってたので、今日はよろしくお願いします。まずは小さい頃のことから聞かせて欲しいな。お兄ちゃんが3人いる末っ子で、快活な女の子だったんだよね。
母:そうね。母親から、女の子らしくしなさいっていつも言われながら、男の子とばかり遊んでた。社宅に住んでいたから年の近い子供がたくさんいて、外に行けば必ず誰かが遊んでいたから楽しかったな。夏は朝から蝉の泣き声が降るように聞こえる、緑の多いところで。
10歳までそこで過ごして、その後父の転勤で名古屋に行くことになったの。名古屋駅前は当時からビルがたくさん建っていたけど、わたしたちが住んでいた南区は当時伊勢湾台風の被害からまだ復興しきっていないような時期でね。あまり緑もなかったな。最初はわたしも「都会に行ける!」とウキウキしていたけど、1ヶ月くらい経ってから急に大牟田が恋しくなったの。寂しかった。だから自分の子どもには転校はさせないようにしようと思ってたよ。
思春期に入ってからも色々悩んだな。先生から大丈夫でしょうと言われたのに大学受験に失敗してしまって。自信過剰なところがあって、滑り止めも受けず一本勝負しちゃったから。その時は本当に挫折というか、「4月から自分の席がないんだ」と思ったらガーンときてね、1日泣いた。浪人して河合塾に通ってた夏、父親が脳梗塞で入院して。幸い軽い後遺症で済んだものの、なんだか勉強にも身が入らなくなって、逃げるように就職してしまったのよね。
職場では可愛がってもらったし楽しかったけど、今のようにキャリアを築くような職種でもなく時代が結婚までの腰掛けのようなところがあったから、やっぱり学校行かなきゃと思い直して。そこから一念発起して「勉強したいから辞めます」と宣言して退職し、1ヶ月本当に集中して勉強して短大に行くことができたの。あの時は嘘みたいにスイスイ頭に入ってきたな。短期間だったから逆に良かったのかもしれないね。
娘:その話、してたよね。万葉集を学んだという話を聞いて、自分が文学に心惹かれるルーツはその辺りにあるのかなと思ってた。その後、パパと出会ったんだよね。結婚を機に関東に出てきたと思うんだけど、その後の人生はどんな風に思い描いてたの?
母:関東にはずっと行きたかったから嬉しかった。こっちには 雑誌の編集とか、そういう仕事が多くあるじゃない。当時名古屋には出版関係の募集がほとんどなくて、小説家になりたいという夢があったこともあり、関東には憧れがあったよね。
けれど当時は私の母親が、関東で一人暮らしをすることをすごく心配して反対されてね。結婚で行くなら仕方ないけど…と言うから関東方面の結婚相手を探してたの。そしたら小田のお母さんがちょこちょこ声を掛けてくれて、お見合いをすることになったのよ。当時は私も猫かぶっていたから気に入ってもらえたのかもしれない
し(笑)、実際に会ってみたら、見た目が今の上皇陛下に似てるような気がして、考え方も素敵な人だなと思ってね、結婚することになったの。
「ものを書く」という夢は消えていなかったけれど、同じくらい「子育て」に心惹かれていて。10代の頃から子どもを育てるということはすごく素晴らしいことだと思ってた。子ども時代って幼稚園の少し前ぐらいからは記憶があるけど、生まれてから2、3歳まではあまり記憶がないじゃない?その期間、人間の子供がどう育っていくんだろうってすごく興味があって。だから子どもが欲しくて結婚を意識したようなところがあったかな。
でも、すぐには授からなくて。子どもをすごく望んでいたから毎月泣いていたんだけど、あなたたちのパパがその都度慰めてくれてね。本当に優しい人だなと思ったよ。こういう時しか言えないけど、その後も一緒に過ごしてきて、本当に出逢えてよかったと思ってる。あんな優しい人いないから。私は自由気ままに生きてきたのにいつも受け止めてくれてね、感謝してる。
娘:そうなんだね。ママは自分のことをじゃじゃ馬みたいに言うけど、私から見るといつも子どもの気持ちをすごく理解して大事にしてくれるお母さんだった。大人になると子どもの時の気持ちって忘れちゃうじゃない?私も自分の子どもたちと話していると、そういう点で良くないなって反省する時があるんだけど。でもママは「今こういう気持ちだよね」っていう声かけがすごく多くて、理解してもらえてるのがわかって嬉しかったな。
母:私、若い頃に新聞で「子供の能力を伸ばせるのは親です」という記事を読んで驚いてね。ずっとそれは先生たちの仕事だと思ってたから。でもそれができるのは親なんだと知って、子どもの能力を潰さないようにしよう、伸ばしてあげたいって考えるようになったの。
親の一言で潰してしまうこともあるじゃない?子どもが何かやりたいって言ったときに、応援してあげられる母親でいたいとはいつも思ってた。だって諦める時は本人が決めるじゃない?やってダメな時は仕方ないし、挑戦しないで終わるより、失敗したとしてもやった方がいいもんね。あなたが今の仕事に転職する時はちょっと反対したけど、でも決めたら応援したでしょ(笑)?
あとは小さい頃から「お姉ちゃんだから我慢しなさい」だけは絶対言わないでおこうと決めてた。弟と2歳しか違わないのに我慢しなさいなんてそんな可哀そうなことはないし、平等に接したいと思ったのよね。
娘:そうだね。私の思春期には衝突もあったと思うけど、「自分は愛されていないんじゃないか」って疑ったことはなかったな。だから安心して色々なことを頑張って来られたと思う。ありがとうね。最後に、子育てが終わって大人になったわたしたちを見て、どう感じてるか教えてください。
母:普通に仕事をして、家族と仲良く過ごして、そういう普通の幸せを大事にしてほしい。
あとは、2人とも真面目だから、自分を追い詰めることがないかはちょっと心配かな。人生には遊び心も必要というか、人間関係が大変な時なんかもあるじゃない?向き合うことも大事だけど、たまにはかわすのもアリなんじゃないかって思うの。私も思い詰めた時があったから、2人には頑張りすぎないで欲しいなと思ってる。自分を大事に生きること。それが大切かなと思います。そこがあって初めて、周りの人にも優しくできるしね。
娘:本当にそうだね。確かについつい力んでしまうところがあるような気はするから、そんな時はこのインタビューのことを思い出してみようと思う。こうやって、言葉を形に残せて良かったです。これからも色んなこと話そうね!今日はありがとう。
INTERVIE BY
KONDO
PROFILE 近藤有希
フェリス女学院高校、東京大学文学部卒業。大手通信会社を経て現在は外資系金融機関勤務。仕事やプライベートを通じて出逢った様々な人の人生に触れる中で、その人の"A面"だけでなく"B面"を知ることの面白さを実感し、本インタビューサイトb-sideを設立。2児の母として子育てもしつつ、大好きな仕事や、ワイン・ホームパーティ・ダイビングなどの趣味も継続。自分の姿を見た子供たちに「人生って自由で楽しいんだ!」と思ってもらうことが目標。